1998年6月記

 19世紀前葉、現在の大分県で、同地の国学者・幸松葉枝尺(さきまつはえさか)により、漢字は勿論、平仮名・片仮名とも別系の異体仮名(世に神代文字と称される一体)で書かれた文書が発見された。ウエツフミと通称され、『上紀』と漢字表記する。1223年、源頼朝の庶子で豊後太守・大友能直の編纂になると伝承され、記紀神代志伝説と同系の物語及びウガヤフキアエズ朝初代から73代サヌ(正史では神武天皇に当たる)に至る特異な王統譜説話を軸に、医学、薬草、天文、暦、金属精錬・農業・漁業等産業技術、民俗など博物誌的内容を網羅する。記紀・万葉の和語にならう語法・文体で書かれ、全体でざっと40余万仮名、10万余語に上る記述内容である。

上紀異体仮名表
古体文字
新体文字
明治8年 黒野辰造筆写「ウエツフミハシガキ」

 

仮名の成り立ち 10綴7章参照
口を表わす絵文字 左の絵文字からつくられた五言(いつこと)


『上紀』は明治初葉、幸松を中心とする豊後の国学者・文人グループによって筆写され、中央政府に上進された。初め政府によって書写・保存されたが、政府は文献評価を避け、事実上却下した。その後、この書に対する国文学、国語学、書誌学、歴史学などの面からの客観的な検討・批判は行われていない。私は、この書の全貌を捉えるとともに、真偽論を含むこの書の文献価値評価、国学・神道思潮に於けるこの書の成立動機、成立背景、編纂主体を究めるべく昭和49年以来研究を続けている。この書の翻訳・普通文字への変換はこれまで一・二の研究者によってなされてはいるが、概要の把握にのみ終わっているか、或いは全訳とはいうものの主観的・恣意的な解釈・当て字が多く、この書の全体像の理解には不十分との印象を拭えない。私は、国学者による記紀古訓の研究など今日に至る国語学、国文学の成果・伝統を踏まえて、可能な限り客観的で正確なこの書の普通文字正本を得るとともに、解読の理論的説明としての注釈を施すことが先決と考え、その達成を期している。その結果、これまでに一応の解読試案をまとめるに至ったので、この ほどインターネット上でその成果を逐次公表することとした。

  この文献に対する最終的価値評価はなお今後の研究に俟たねばならないが、これまでに私は以下のような中間・暫定的評価を抱くにいたっている。

☆この書物は殆ど漢語系語彙を含まず、これまで明らかにされている文献上では本居宣長の古訓古事記がはじめて展開して用いている倭古語に基本的に重なり合う語彙・文体で書き通され、文体、内容の上からは平田篤胤の古史成文に深く重なり合う部分も含んでいる。本書のはしがきや付録文献が本書を鎌倉時代の成立として時代の上限を設けているところから、一種の擬古文による擬史的作品と言うべきであるが、中に見られる特異語彙や50音字文字体系の駆使など、宣長ら江戸時代の国学者らの擬古文とは文体・語彙のおもむきを異にするところがある。またこれに類する擬古文献を他に見いだせないことから、理論的には伝説が伝える成立年代の1223年以後江戸時代に至るまでのいずれかの時代に編述成立したものと考えるべきではないか。

 ☆記事の背景には記紀、古語拾遺、風土記等を始めとする古伝承、医学・天文・技術・産業・地理・民俗等の知識の集積があるものと考えられる。

 
☆例えば、本来、兄弟不和のストーリーをベースにしたものであることが、他の東南アジア民族の同系伝説との比較から明らかな海幸・山幸伝説が、本書では儒教的兄弟愛、謙譲物語に作り替えられていたり、記紀が天孫ニニギの子の一神・ホスセリの末裔とする隼人の狗人伝説をホスセリとは別神にかかわるストーリーとし、更に隼人の名称をも削り落とすなど、いくつかの重要事項においてある種のユートピア思想に基づく説話の変造が明らかである。
 
☆地理記述など小さなモチーフにかかわる不要で多量な修飾的反復記述が多々見られること、人格名が「アマノコヤネ」、「アマノフトダマ」など記紀等に現れている神格名を氏族号として大量に登場させているなど修辞的筆法が著しい。
 
 ★こうした点などから本書の記事は、一定の伝統的伝承・知識・古語をベースにして編述された創作説話ではなかったか、と考えられる。

  

なお本訳の解読表記は私の責任においてなされたものである。 
本訳文中に用いられている仮名文字のうち、片仮名表記のものは所謂・いろは48文字に含まれない特異仮名で、「イ」は50文字体系のや行2段(yi=普通仮名・ひ)、「エ」はや行4段(ye=普通仮名・へ)、「ウ」はわ行3段(wu=普通仮名・ふ)、「ヤ」はや行1段の普通仮名「や」とは異なり、家・屋、詠嘆辞の也等の「や」を表す文字として区別される。「ハ」はは行の「は」とは異なり主格または提示・係りの助詞・わを表すもので普通仮名「は」で表記されるものである。また上紀の50字仮名表ではあ行5段とわ行5段とが入れ代わっている。
注釈欄の注釈記事の中にある(1)、(2)、(3)等の数字は、訳者が抱いている仮説的解釈の可能性の比重に応じて付した順位であることを断わっておく。

最後に、この「解読上紀」のインターネットでの公開に当たっては、大分県臼杵市在住の吉森健氏に多大なるご尽力とご指導ご協力を賜った。この場を借りて吉森氏に心から感謝の意を表させていただきたい。

     



                          田中勝也

   

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