年表:うえつふみの発見       吉森 健   戻る

■ 文化(1804-1818)末〜文政(1818-1830)の初め
【豊後大野郡の宗像氏、家伝来の古文書を鑑定にだす】

豊後国大野郡土師村(現大分県豊後大野市大野町)の庄屋宗像良蔵の家に、古くから「神のふみ」として伝わる古文書があった。良蔵は、当時、神道の講釈布教のため岡城下にやって来ていた京都の神道家玉田某にこの書の鑑定を依頼した。玉田は、この書が特殊の仮名で書かれていたため読めなかったが、普通文字で書かれた大友能直(豊後大友氏の祖)の「はしがき」を読んで預かった。しばらくして評価を聞きに行くと、これは偽書で無益の書だと言って良蔵に返した。良蔵は玉田の話を聞いてありがたみも薄れ、家の宝とするのをやめてしまった。

典拠:
幸松葉枝尺『高千穂学びの心得方の文』明治7年頃
吉良義風『上記徴正』甘泉堂明治13年刊 
田近長陽『高千穂古文字伝』明治9年
内藤平四郎筆写『上記』跋文 明治9年頃


■ 天保2年(1831)
【幸松葉枝尺(さきまつはえさか)による発見】

宗像良蔵には豊後国大分郡国宗村、万力屋(岩津)重三郎の妹で国女という妻がいた。良蔵の死後、国女は国宗村の実家に出もどる。この時、くだんの書を宗像家から持ち帰った。この書の内容もわからず、価値も判断できなかった国女は、いとこで大分郡府内の国学者幸松葉枝尺に、反古にでもして売り払うよう頼んだ。葉枝尺は「はしがき」を読んで驚き、この書が書かれている特殊仮名を学んで読み進めた。しかし、その内容が旧事紀、日本書紀や古事記と大きく異なっていたため読むのをやめた。

典拠
幸松葉枝尺『高千穂学びの心得方の文』、吉良義風『上記徴正』、田近長陽『高千穂古文字伝』、内藤平四郎筆写『上記』跋文


■ 天保2年(1838)〜明治5年(1872)
【幸松葉枝尺による書写】

その後10年たってもう一度読んでみると、大変高貴な神典であることがわかったので元の持ち主の国女に告げたところ、国女は驚いて家に持ち帰った。以後この書は万力屋岩津家で保管されることとなる。それから1年後、葉枝尺はこの書を一度に一、二冊づつ借り出し書き写し、6年余り後の嘉永元年(1848)に写し終えた。しかし、最初の写本の仮名が特殊仮名であったので、これを全部普通仮名に書き改めた。
しかしこれは正しいやり方ではないと考え、原書に照らして写しかえたが、この時も、一寸したありふれた仮名は普通仮名を使った。
しかし、再び考え直してみるとこれも正しいことではないので、やはり原書のまま写すことにし、元治(1864)に着手し明治5年(1872)に正しい写本を終えた。
これがいわゆる「宗像本」で、後に明治中期まで全国各地で作成された写本の底本となった「幸松オリジナル写本」である。

典拠
幸松葉枝尺『高千穂学びの心得方の文』、吉良義風『上記徴正』、田近長陽『高千穂古文字伝』、内藤平四郎筆写『上記』跋文


■ 明治6年(1873)
原本の流没と大友本ウエツフミの発見】

明治6年9月2日、万力屋岩津家に保管されていた原本が洪水で流された。
当時大分郡三佐で教員をしていた国学者吉良義風は、幸松から「上記」発見の経緯を聞き取った。また10月に「碩田叢史」で知られる国学者で蒐書家後藤碩田を訪ね、「上記古写本ノ類書」が海部郡臼杵の旧家大友氏の家にあることを知る。
大友氏が家説を固守して容易に他見に応じないことを碩田から聞いた義風は、かねてからウエツフミに興味を示していた大分県令森下景端に告げ、森下は、県官春藤脩と謀って、その古本を外見に供するよう臼杵福良村大友淳を説得させた。はじめ淳はこれをかたくなに拒んだが、淳の文筆の師、脩の父、春藤茂(倚松)の説得によりようやく心を開いて、はじめて「上記」古本の一部を茂に提出した。これが明治7年3月ころのことであった。そこで春藤脩はこの古本を臨写(底本に用紙を重ね、底本の文字をなぞって写すこと)し、この臨写本と古本とを森下に提出した。
さらに川上市蔵という人物も、春藤の臨写本を筆写して、これまた森下に提出した。
ここに至って、淳は、古本の残り全部をまた春藤茂に提出した。かくして春藤脩はこの残部をも臨写して、大友本の臨写本全巻を完成させた。明治8年の秋であった。
この臨写本の底本となった古本は、後に大友家の没落時、佐々木千尋(明治14年大分県大書記)が買い上げ、県庫に収めた。これが大分県立図書館に現存する大友本「上記」である。
典拠
吉良義風『上記徴正』、田近長陽『高千穂古文字伝』

■ 明治7〜8年(1874〜1875)
【明治政府へ献本】

明治7年春、幸松葉枝尺は自筆の写本(幸松オリジナル写本の複写本)1部を明治政府に提出しようと大分県庁に上願した。
大分県令森下景端はこれを受けて明治中央政府に進達した。
献呈を受けた内務省は、この写本を教部省へ回送した。
教部省は官員井上頼国にこの書を翻訳させようとしたが井上はこれを辞退した。
そこで明治7年7月、根本真苗(豊後岡藩士族、明治7年教部省出仕)が教部省で直訳の命を受け作業を始めた。
ついで吉良義風もこれに協力し同年8月から二人共同で、直訳の作業に従事した。
直訳は翌8年4月に脱稿した。内閣文庫蔵『上記直訳』41冊である。
そして一旦は受理しなかった内務省は、教務省へ回送した「上記」を借り受けて筆写して残すことになった。内閣文庫蔵『うへ津婦美』41冊である。内3冊は別に筆写され『上記副本』として残された。幸松の献呈した『上記』41冊、根元・吉良共訳『上記直訳』、内務省本『うえ津婦美』の3種類の同文同一の「ウエツフミ」が、それぞれ全41綴の完全な形で現在国立公文書館に保管されている。いわゆる宗像本と称されるものである。

典拠
吉良義風『上記徴正』、田近長陽『高千穂古文字伝』
  

◆この年表は以下の文献を参考に作成したものです。

・田中勝也「上記研究」八幡書店 昭和63年
・中村和裕「『上津文』の出現と流布について」大分県地方史142・144・145号
・中村和裕「明治七年大分県の『上津文』献呈始末」九州史学102号
・中村和裕「大友本『上津文』の発見と流布について」近代ピラミッド協会1996年

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