▼リンク
 
No.22 山崎 好裕
「上つ文」のアーコロジー
国学者幸松葉枝尺の達成

 
No.16 藤島寛高
ウガヤフキアエズ王朝実在論
 
★解読 上紀(うえつふみ)
 ■一体 誰が何時なんのために書いたのか。
■「解読 上紀」へのご感想・ご意見をお聞かせください。
      ◆投稿のきまり
P.3《 前頁 頁へ 》       
No.26 日本の神話補足的古文書?藤堂小五郎2024/09/26
古事記日本書紀の編纂が進められ日本の成り立ちが文字化され体系化された以降にどこぞの誰かよって付け加えられたものではあるまいか。ウガヤフキアエズ王朝75代王が神武天皇とされていることから初代天皇の正当性を裏付けるものとして必要だったのではあるまいか。日本神話は旧約聖書を模したものとの意見も散見されることから恐らく当時政治の中心にはユダヤ系渡来人が重用されていたのではあるまいか。今後日猶の歴史碩学者の研究に希を繋ぎたい。宜しく願います。

 
No.25 興味深いです!おくとまうと2021/06/18
上記というものの存在も知らなくてたまたまたどり着いたWikipedia中の単語からこちらに行きつきました。
とても面白いです。

コメント返信中の

しかしウエツフミが偽書の一つであったことがわかってきても、誰が何のために、どういう状況下で作成されたかはまだ不明です。
それらの残された問題についての研究はそれほど異常なものとは思われないのですが、いかがでしょうか。
とくにウエツフミの発見された地方の歴史研究者にとっては黙殺しきれない研究テーマの一つだと考えるのですが。
古事記以前の文献、ムー大陸の伝承といった類の夢やロマンの要素はなくなったかも知れませんが。

かっこいい返しですね。
残された問題の研究こそロマンを感じます。
頑張ってください。

 
No.24 文字置き換え表に関して2020/07/11
ウエツフミに大変興味をもって取り組んでいます。70歳を過ぎ当文に巡り合うことが出来ましたことを感謝しています。次のことを質問します。文中にヤ・ハ・ウ・エの片仮名が浮き上がる仕組みになっていると思われ気になります。即ち秦氏の神ですね。宇佐は渡来人の一次滞在場所あるいは定住された方も多いと聞きます。文字置き換え表に仕組まれていたと私は思っています。ふみの出自の研究課題の一つではないでしょうか。大友能直以前の文献にあったのではと想像しますがお考え伺いたいと思います。

コメント1瓜生島のことアオヒトクサ2021/03/02
文中に「うりウのおはま」という言葉が出てきますが、
これは「はやすイど」という言葉と一緒にでてきます。
「はやすイど」は「速水の瀬戸」だと思われますので「うりウのおはま」は「瓜生島」のことだと思われます。
大分の地方史研究者によって「瓜生島」という言葉の歴史は明らかにされています。
「瓜生島」という言葉は、誰もがみとめる文献では、江戸時代以降にしか登場しません。
別府湾での慶長の大地震は、同時代の文書では「沖の浜」地震です。
この時点では「瓜生島」という言葉は存在していなかったのです。
「ウエツフミ」が大友能直以前の文献とは考えにくいと思っています。

 
No.23 単純な質問で、すみません。匿名2019/05/25
「うえつふみ」の作者とかその年代は、イメージが沸いてくるのですが

本文の文字が使われていたのは、いつ頃の時代なのでしょうか?

コメント1「豊国文字」のことでしょうかアオヒトクサ2019/06/28
ウエツフミを書いている文字は「豊国文字」と呼ばれていますが、
ウエツフミとは関係ない文章を書いた「豊国文字」の例は見つかってないようですね。
No.5 コメント2 の「国東町下成仏の岩刻文字磐」というのががありますが、内容はウエツフミに関係のある文章ですね。
「豊国文字」はウエツフミのためだけに存在する文字ではないのでしょうか。

 
No.22 明治初期国学文献としての『上つ文』山ア 好裕2017/12/30
 私は経済学を専門とする大学教授です。生家が代々続く神官の家であったため、幼いころに買ってもらった吾郷清彦『古史精伝ウエツフミ原文併記全訳』によって『上つ文』に親しんできました。私は『上つ文』は、幕末から明治期の地方における国学の水準を示す貴重な史料であると考えています。幸松葉枝尺の仕事は、日本神話の解釈としてたいへん高い水準にあると思いますし、神道の教典として完成の域に達していると評価します。
 下記の通り、フェイスブックのノートに私の見解をまとめましたので、ご覧いただけると幸いです。
 
https://www.facebook.com/notes/山崎-好裕/上つ文のアーコロジー国学者幸松葉枝尺の達成/1510606752391099/

コメント1「上つ文のアーコロジー」拝読しました吉森 健2018/01/02
「上つ文」創作者幸松葉枝尺の心理についての御指摘、大変興味深いものでありました。
また幼い頃から「上つ文」に親しんでこられたとのことですが、「うえつふみ」を考える上の材料が一つ増えたような気がしています。
ありがとうございました。
リンクを貼らせて頂きました。

 
No.21 一体、誰が何の為に書いたのか上野散人2016/07/27
古事記日本書紀が企画、編纂、完成を見た時代は国土を外来仏教が支配管理していた時代でもありました。古事記日本書紀はその土俗の神学、それまでこの大地に培われてきたヤマト民族の生き方の身上を奥深く隠さねばなりませんでした。
江戸末、ウエツフミがこの世に現れた時も仏教が国土の民の生き死にの台帳を管理統制していた時代でした。
あの神ながらを歌い上げた本居宣長でも葬式は仏式であり仏教徒でした。宣長は国学者の名を語って真福寺本を二千余字改竄し、ヤマトの神学体系をばらばらにしてしまいました。
この日本国土はいまでも外国思想に習熟した官僚が外国基準で支配統制している国柄なのです。聖徳太子作とか、大友編纂とかは、こうした管理体制へのせめてもの悲しい適応策でしょう。
仏教監視下で長いこと、出るに出られなかった、大分ー豊の国のオリジンを幕末明治の伊勢神宮えぇじゃないか、神武創業、神政復古の風潮に乗せてどうかして遺したかったのでしょう。
大東亜戦争下で仏教徒、軍人、教員、役人たちに安売りされ地に落とされててしまったわが国土の神様、為にカルトと同格に敗戦後は成り下がっていますが、神様の教えを大事に守ってきた人たちが、この大分におられたのです。有力者を語るウソ\偽りは百も承知、そうした弾圧監視下で必死にカミを守ってきた大分の人々の歴史は尊いものと思われます。
鎌倉期か江戸期か、いつウエツフミが書かれたかまだ決しかねていますが、豊の
国に伝わる経学神教のオリジナル本は
あったでしょうが、鎌倉江戸の文芸、思想のレベルを遙かに超えるものでとうてい、この時代の産物ではないと断言できます。
一体、誰が何の為に書いたのか。
ウエツフミは神代の暮らしぶりの記述です。これが世のため人の為、将来役に立つからです。そう信じた人たちが秘かに伝えてきたのです。

 
No.20 偽書の読み方上野散人2016/07/27
大成経、ホツマ、ウエツ、偽書の代表\格であるこれらの書物、精読してみると高度の経学、神学が体系化されており、記紀万葉では味得できえない境地を体感させられています。わずかながらも未だにファンの絶えないのもそんな由来不明のどこから湧きだしたのか知り得ない、風格風情があるからと思えます。
ウエツフミは偽書であるとのお説はわかります。豊後大友氏三百年、その足跡事績にウエツは全くでていないのですから、もっともです。ただし、大分に住んでいて多少地理を分かる者には、瞠目すべきというか、蒙を啓かれる記述に満ちているという実感は否定できないのです。由布岳、本宮山、霊山、祖母岳等々。東のフジサン、西のフジサン(由布岳)、突如現れ出すこうした記述、でたらめと否定しきれない、何かがあろうかと。
偽書説に立たれる方はどうか、こうした
伝承、高天原神学をぶち壊すくらいに
歩を進めていただきたいと思います。
神代文字とか、伝承経路とかの云々では
ウエツその他の神学は打破できませんよ。


 
No.19 「くむらん」という神様くむらん 尋ね人2016/06/29
ウエツフミに くむらん という癒しの神が登場するそうですが、どこに登場するのか、また具体的にどんな神様なのかご存知でしょうか?資料を読んだり、貴サイトで検索したり、あちこち探しましても、分からないために、この掲示板でお尋ねいたします。よろしくお願いいたします。

コメント1クムランの名前についてともえもん2019/01/26
クムランとは、イエスキリストの初期の原始キリスト教の団体の名前だとおもいますから、それに関係あるかと、修行により奇跡を、行う事ができた集団、水をぶどう酒にしたり、水の上を歩いたり、病を癒したり。

 
No.18 神代文字岩とウエツフミの関連性について西井 健樹(にしいたてき)2014/11/25
先日、国東半島の見地というところにある
神代文字岩を見てまいりましたが、そこに
ある岩に、ウガヤフキアエズ朝第二十五代天皇の「トミアキタラシナカオキテンノウ」と
豊国文字で彫られた碑がありますが、ウエツフミで見てみると、第14章28綴に23代から27代までの天皇のことがまとめて書いてあり、葬られた場所の記述がありません。ウエツフミに述べられた天皇は多くは、大分市にある霊山という山に葬られたとのことですが、それ以外の方の葬られた場所が明確でありません。国東の神代文字岩のあるそばに、山稜と記された漢字で書かれた小さな石碑がありますが、ここが二十五代天皇陵と比定出来るような資料はないのでしょうか?


 
No.17 最新の投稿を拝見しました。藤島寛高2014/05/03
吉森健様

平成26年3月7日にアップされた、
『春藤倚松大友本で見えてきた 偽書ウエツフミの作者』を拝見しました。
全く納得がゆきません!
「意図的にウエツフミを偽作とするため」堂々と珍説を展開されているような、不自然な動機が感じられます。

(1)ウエツフミの宗像本と平田篤胤の「古史正文」には共通点が多いこと。
については、よく分かりました。
(2)だからといって、「宗像本」は「古史正文」を参考にして書かれた偽書である。
と決め付けるのは、大問題ですね。というより論理的に飛躍があります。
(3)むしろ、平田篤胤もウエツフミを参考にして「古史正文」を書いた!と結論づけるべきではないでしょうか?

論理的には(2)も(3)も、全く同じ確率で成り立つ訳ですから、(2)でなければおかしいとする根拠が全く希薄です。証拠となるコマがひとつ欠けています。

さらに、「カラシナ国からの使者」宗像本22綴13
について解説されていますが、原文と全く違う要約になっていますね。
「カラシナ国の使者は5年後にやってきたが、年貢を納めなかった」と原文にはあります。
「だから彼らの舟が着いたところをカラツキ(空で着いたという意味でしょう)と呼ぶ」というのが原文です。
ここは、あえて解釈を変えたのでしょうか?
それともカラシナ国を応援しなければならない、何か特別の理由をお持ちなのでしょうか?

いずれにせよ、この論文は「論多くして真実少なし」というのが、私の感想です。


コメント1お応え吉森 健2014/05/07
拙稿「偽書ウエツフミの作者」に対するご感想ありがとうございました。
「珍説」、「不自然な動機」というお言葉は気にせず、ご指摘の二点について私見を述べます。

まず、
一、
@ウエツフミの宗像本と平田篤胤の「古史成文」には共通点が多い
A宗像本」は「古史成文」を参考にして書かれた偽書である
というより、
B平田篤胤もウエツフミを参考にして「古史成文」を書いた!
と結論づけるべきではないか、
というご意見について

「論理的にはAもBも、全く同じ確率で成り立つ」というご指摘ですが、確かに、「論理的にはAもBも」成り立ちます。
しかし「同じ確率で成り立つ」といえるのは両方に同程度の根拠となる材料が存在するか、両方ともに何の判断材料もない場合に限られます。
私は、AかBかを判断するためにあらためて平田篤胤を勉強しました。その結果、平田篤胤は自己の著作に使った文献はすべて誠実に記しておく学者であったことは間違いないと判断しています。特に「古史成文」においてはその一つ一つの文節は数種類の文献を点検して選択、その選択の理由を示した上での記述となっています。典拠を示さず引用するなどありえないのです。
平田篤胤がウエツフミの存在を知らなかったのは、「神字日文伝」にウエツフミが載っていないことからも明らかです。拙稿で触れていますが、平田篤胤の門人であった竹田の田近長陽はウエツフミ発見に感激し師に代わって「神字日文伝」に追記することを考えたと述べています。
こうした材料からBを仮定するのはむつかしいと考えた次第です。もちろんBの否定から直ちにAにはなりません。
そこで拙稿でAまでの論考をしているわけです(p.12「七 宗像本と大友本の内容の比較」)。

次に、
二、「カラシナ国からの使者」の件
早速ご指摘の箇所調べました。
その結果、「原文と全く違う要約」というご指摘の事実は無いことを確認しました。
念のため吾郷清彦「ウエツフミ全訳」をも調べましたが、吾郷清彦氏は「カラツキ」に「漢着」という漢字をあてています。
田中氏の解読にも、拙稿での要約にも誤訳の事実はありません。
「カラシナ国の使者は5年後にやってきたが、年貢を納めなかった」とあるという原文とは何かをご教示ください。

本サイト開設の目的は、
「◆投稿のきまり」に述べていますように、
「従来、研究する意味のない単なる偽書として扱われてきた「うえつふみ」を研究の価値ある文献として見直してもらいたいというのがこのページ開設の目的です。…」というものです。
私の場合は、私が臼杵の人間で地方史の勉強を続けていることからウエツフミの作者を研究のテーマとしてきたわけですが、ウエツフミ研究の意義はそれだけではないと考えています。
どうかご理解のほどお願いいたします。