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No.22 山崎 好裕
「上つ文」のアーコロジー
国学者幸松葉枝尺の達成
No.16 藤島寛高
ウガヤフキアエズ王朝実在論
★解読 上紀(うえつふみ)
■一体 誰が何時なんのために書いたのか。
■「解読 上紀」へのご感想・ご意見をお聞かせください。
◆投稿のきまり
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蹇蹇生
No.5
記
吉田信啓
2007/02/18
小生も「神字日文考」(中央アート出版)で、上記の正当性を主張しましたが、田中勝也氏が全訳を完成されたと知り嬉しい限りです。今度、みのもんた司会の古代史第二弾のテレビ特集の制作に協力していますが、ぜひとも田中勝也氏ほか関係者のご出演や協力を願いたいものです。2月21日ー2月23日に大分、熊本、北九州で撮影。
放映は3月です。2月21日は大分県立図書館で上記の原著を撮影しますが、ご協力願えば幸い。(日本ペトログラフ協会会長、ユネスコ世界遺産委員会岩石芸術部門日本代表)
コメント2
:
国東町下成仏の岩刻文字磐
吉田信啓
2007/02/24
平成18年2月25日の大分合同新聞の夕刊11面(社会面)トップ9段抜きで、「誰が刻んだ古代文字」という特集があります。その文字こそ、ウガヤフキアエズ王朝第25代のトミアキタラシナカオキスメラミコトの言葉なのです。9年前にその磐の発見者が溝部安司さん、解読したのが小生です。詳しくは拙著「神字日文考」(中央アート出版)や、「ペトログラフハンドブック」(中央アート出版)に書いていますが、その謎の文字磐を中心に話しを進め、上記や竹内文書の記述を解説しながら古代史の謎解きをするのが、今回のテレビ日本系列放送の番組です。ぜひご覧下さい。
コメント1
:
残念ですが
管理者
2007/02/20
2月21日はあいにく都合がつかず県立図書館に出向くことができません。
ご了承ください。
どのような趣旨の番組かはわかりませんが、よい番組ができあがりますよう期待をしております。
放送日時などご投稿頂けると幸いです。
No.4
漢字表記について
蹇蹇生
2007/02/07
なぜ「うえつふみ」の漢字表記を「上記」から「上紀」にされたのでしょうか?
意図すべき点が存するのなら、それは如何なる根拠に寄るものでしょうか。多少疑問に感じましたので。
なお、浅はかな意見で恐縮ですが、ここは田中氏の偉業を紹介されるに有意義かつ貴重なHPだとは思いますが、せっかくのサイト開設ですので、情報収集・意見交換のためのメールアドレスを設けられてはいかがでしょうか。
むろん、寄せられる情報は玉石混交でしょうが、互いの有する情報の接点が見出せたとき、研究を思いがけず前進させることもあるのではないでしょうか。
以上、率直に申し述べましたが、出すぎた意見ととられましたら、御寛恕願います。
コメント1
:
漢字表記について
管理者
2007/02/13
ご投稿ありがとうございます。
「自由投稿」ページの開設からずっと新しい投稿がなく、管理者としてさびしい気持ちでおりましたところ臼杵に縁のある方からのご投稿、うれしく思っていたところです。
ここ数日ページを開く機会がなく返事が遅れましたことお詫びいたします。
■最初に公開メールの件ですが、じつはページ開設当時からご提案の趣旨でメールを公開していたのですがこの数年「迷惑メール」が急激に増えたため、その対策としてこの「自由投稿」ページを開いた次第であります。
田中さんにも積極的に投稿して頂くことをお願いし田中さんもそのつもりでしたが、一昨年秋ご病気で倒れられ、その後快方には向かっておりますものの現在なお投稿をお願いできない事態になっています。田中さんの1日も早いご回復をお祈りしている状況です。
■次に漢字表記「上紀」についてでありますが、これは従来の「上記」(田中さんも「偽書考」では「上記」を使っています)が一般名詞の「上記」と紛らわしいのを避けるためであり、特別の理由はないと聞いています。
■田中さんがお元気な頃、「大分県人は無責任だ。こんな書物を世にだしておきながらそのままにしている。決着は大分県人がつけるべきだ」といわれ、なぜかこの時「申し訳ない」と思ってしまったことがありました。
私も地方史研究の専門家ではありませんので知り合いの研究者に機会あるごとに田中さんの研究のPRを続けていますが、「うえつふみ」は「偽書」ではあるが江戸時代以前の民俗資料を豊富に含んだ文献であるということは間違いないというのが大体の共通意見のようです。
ご提案のご趣旨まったく同感でありますがどうか事情をご了解いただきこの「自由投稿」ページのご活用をお願いする次第であります。
No.3
門外漢ですが。
蹇蹇生
2007/01/14
貴HPを拝見、思う処あり書込みをさせていただきます。
予め述べておきますが、私は臼杵に縁ある者ですが、所謂郷土史家ではありません。ですから、卑見が、動もすればとんでもない見当違いであったり、全くの誤断であったりという事もあろうかと存じますが、その際には御憫察を請うばかりです。
実は、私が「上紀」に行き当たりましたのは、別方面の研究からのアプローチによる偶然であり、この過程で貴著『上記研究』を拝読する機会にも恵まれました。
なお、私の研究については全く私的なものですので縷陳を控えますが、「上紀」という巨大な壁に突き当たったキーワードは、「臼杵」「春藤倚松」「菊川南峰」「神代事記」「イロハ詞」「裁許状」「吉田神道」「卜部家」「釋日本紀」「岩戸文字」といったところです。
そもそも、私が以前から素朴に、かつ漠然と疑問に感じていたのは、どうして日向国に「臼杵郡」があるのかという事でした。「臼杵」といえば豊後国。何ゆえに離れた場所に同名の地名があるのか・・・。
そして、ある日、日向国臼杵郡高千穂に出土したとされる「岩戸文字」と豊後国臼杵に大友本として伝承された「上紀」との繋がりを、ヒントとして見い出した次第です。これには、「尾平文字」というおまけも付き、地域的に見ても、岩戸(岩戸文字)→尾平(尾平文字)→大野町(宗像家)→臼杵(大友家)という神代文字ラインが形成されはしないかと、邪推もしているところです。
加之、「上紀」といえば、臼杵やその周辺の地域名が多々引かれていることも、或いは私の研究とも何らかの関係があるのではないか、と。
ともかくも、私の場合には、「臼杵」という共通項を求めながら、はからずも「上紀」の世界に迷い込んだのですが、換言すれば、この繋がりを逆探求することが、「上紀」の作者と製作動機に迫れはしないか、とふと考え至ったわけです。
・・・とはいっても、上述のとおり私はそもそも門外漢であり、また「上紀」という稀代の奇書に対峙するには自身があまりに微力であることを自覚しておりますので、以上愚見を書き留めるだけにさせていただきたいと思います。
― 蹇蹇生(大分市)
No.2
この書物は親秀の室坊門家が出所
児島
2006/01/21
上記には一部真実がある
この書物は親秀の室坊門から聞いて
記したものでありましょう。
能直は武士であり,神々に列なる
歴史は判読できない。
然るにサンカが記した書でも無い。
No.1
「うえつふみ」の作者は発見者か
海人茶
2005/12/05
「うえつふみ」の成り立ちに関して田中勝也氏は、「解読 上紀 序文」の中で次のように述べている。
「この書物は殆ど漢語系語彙を含まず、これまで明らかにされている文献上では本居宣長の古訓古事記がはじめて展開して用いている倭古語に基本的に重なり合う語彙・文体で書き通され、文体、内容の上からは平田篤胤の古史成文に深く重なり合う部分も含んでいる。本書のはしがきや付録文献が本書を鎌倉時代の成立として時代の上限を設けているところから、…理論的には伝説が伝える成立年代の1223年以後江戸時代に至るまでのいずれかの時代に編述成立したものと考えるべきではないか。」
「記事の背景には記紀、古語拾遺、風土記等を始めとする古伝承、医学・天文・技術・産業・地理・民俗等の知識の集積があるものと考えられる。」
「こうした点などから本書の記事は、一定の伝統的伝承・知識・古語をベースにして編述された創作説話ではなかったか、と考えられる。」以上。
田中氏は「中間的・暫定的評価」としてこのような判断を示しているが、以下は「解読 上紀」を読みながらの感想です。
■創作された時期
創作説話だとすると作者が存在する。田中氏が明らかにしたように「平田篤胤の古史成文に深く重なり合う部分も含んでいる」とすれば、その作者が「うえつふみ」を書いた時期は古史成分が書かれた後になるはずであると普通考える。田中氏がそのように限定しない理由は何であろうか。
(1)作者が本居宣長や平田篤胤の著作を見ることなくそれらの著作物と共通の内容、語彙、文体をもつ「うえつふみ」を書き表わすことは可能であろうか。作者が本居宣長と共通の材料をもっており、その材料をもとに本居宣長より先に「うえつふみ」を創作したのであろうか。その共通資料は勿論普通文字で書かれたものである。
そういうことが可能であるのか不可能であるのか私には判断できないが、この場合、幸松葉枝尺の残している「うえつふみ」発見の経緯はその通り信用できるものとなる。
そして「うえつふみ」の謎は一層深まるがその資料的価値は高まることになる。
(2)一方もし作者が本居宣長や平田篤胤の著作を見て「うえつふみ」を書いたならどうか。平田篤胤が古史成文の草稿を書いたのが文化8年(1811)で出版は文政元年(1818)という。幸松葉枝尺によると「うえつふみ」が豊後大野郡の庄屋宗像良蔵の家で発見されたのが文化末か文政の初めである。宗像家に代々「神のふみ」として伝わっていた古文書だったという。これはおかしい。幸松の伝えた発見のいきさつは成り立たない。発見の話がそもそも創作であり「うえつふみ」の作者は幸松葉枝尺ではないかということになる。
また明治6年(1873)、幸松との関連も不明な臼杵の大友淳という人の家から写本が現れている。幸松が作者だとすれば大友淳も何らかの共犯関係にあるということになり、当時「うえつふみ」に関わった豊後の国学者、後藤碩田、春藤倚松、吉良義風ら全て幸松や大友に騙されたかということになる。そういうことなのだろうか。しかし幸松を犯人と断定するためにはもっと確かな証拠が必要である。明治になってからの吉良義風ら大分県人の動きをみるとこの説はなかなか信じがたい。
■宣長・篤胤より前に書かれた「原上津文」
歴史読本「偽史源流行」で藤野七穂氏は、幸松は0から創作したのではなく、宗像家で発見された「原上津文」から「上津文改定版」をつくりあげたのではないかという。宣長や篤胤の著作にはない「ウガヤ王統譜」の骨格部分が「原上津文」に書かれており、後に宣長や篤胤の著作などの影響下でいわゆる「幸松本」を書き上げたと推理する。そして「大友本」も幸松とそのグループが作り上げたと考える。偽造ではなく改定であり、グループも共謀者ではなく改定作業への協力者である。しかし吉良義風の「上記徴証」などを読むと、「幸松本」誕生の経過はこの筋書きとは少し異なっており(幸松は正確に一字一句原本の通り書き写したと吉良に告げている)、春藤倚松や吉良義風らがそのグループの一員であったとは考えられない。もしこの筋書きが正しければ、やはり幸松とそのグループには秘密結社めいた一面があったことになる。そして「原上津文」の謎はそのまま残る。
私などは「解読 上紀」を読みながら、田中氏のいう「医学・天文・技術・産業・地理・民俗等の知識の集積」の部分が面白いと思うのだが、これらの部分は果たして「原上津文」にあったのか、幸松らが書き加えたのだろうか。それぞれの分野の歴史に精しい方々が読めば何かわかるのであろうか。