★春藤倚松大友本の画像・解読データ (論文第七節で使用した部分のみ)
                                   
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第七節 宗像本と大友本の内容の比較

 大友本の対応頁は臼杵市教育委員会作成の春藤大友本画像データによる。
最後の項は「解読 上紀」の「大友本 うえつふみ」の記事である。

■宗像本四綴三、四章→大友本二巻二十五頁
 「古史成文」五十四段に、「こヽに常世の長鳴き鳥を集めて互いに長鳴きせしめ、天之手力之男の神を石戸の側に隠し立たして、天之宇受賣命を神楽の長となして」という文章があるがこの部分が、宗像本では「…隠し立たして」と「天之宇受賣命を…」とに分割されその間に独自の一文が挿入されている。その内容は、八十の比売神たち、八百柱の天津神たちが冠袴きらびやかな衣装に黄金白銀の玉や楽器をもって歌い舞う。「天之岩戸の前の神々のオンパレードの様子。さながらオペラの台本の如き筆致であり創作的である。古代宮廷の儀式の模様はこの様なものだったか」(「解読 上紀」四綴三章タイトルコメント)といった情景である。
 一方「大友本」ではほぼ古史成文のまま。

■宗像本十綴十四〜五章→大友本四巻五十三〜四頁
 月と日と時の定め方、つまり暦の制度が宗像本と大友本で異なっている。
 ウエツフミでは日の出の方向を、東の方角に並ぶアラカ(宮殿)で示す。
 宗像本では十三のアラカがあって、その六番目のアラカから日の神である天照大神が出る月をムユ(六)ビ月、二月のケサリは七アラカ、三月のイヤヨは九アラカ、四月のウベコは十一アラカと決め、月毎にアラカを移動、それに応じて昼と夜の長さが決まっていく。田中氏が「上記研究」でその仕組みを考証している。
 大友本では、月の名も少し違っていて、ムツ(六)ビ月は一アラカ、二月は虫食いで不明だが、三月のイヤヨロシは三アラカ、四月のウヱツヱは四アラカからとなって宗像本とアラカの番号が違っている。このあと「以下凡一葉闕」とあってさらに説明が続くのかどうか不明ではあるが、月の名前とアラカの番号が両本で異なっているのはわかる。
 また一日の時刻の決め方が宗像本と大友本で違っている。 
 宗像本では一日が十八シバ(アサビラキシバからシヌメシバ)とされ、季節の昼と夜の長さをシバ数の違いで示している。五月は昼が十二シバで夜が六シバ。十一月になると昼六シバ、夜十二シバとなる。これは定時法のようである。
 一方、大友本では、昼は天照大神が六つのアラカのそれぞれの真中を通りすぎるときの時刻に名前をつけ、夜は満月の日に月夜見神が六つのアラカのそれぞれの真中を通りすぎる時刻に十二の名前をつけている(アサビラキノトキからマサメノトキ)。これは不定時法のようである。

■宗像本十七綴十四章→大友本七巻五十七〜八頁
 ウガヤフキアエズ初代は諸国からのヌノサキ(貢物)が集まりすぎているのを見て、ヌノサキを運んでミヤヌチ(宮内)にやってくる船を止める。諸国のクニノタケル(国の臣の上長)は来年からヌノサキを減らすよう民に伝える、という話が宗像本に書かれている。
 この話は大友本にはない。

■宗像本十八綴十四〜五章→大友本八巻十一頁
 同じウガヤフキアエズ初代が諸国巡遊のため速吸門の沖に船出すると、愛媛と穴門(長門)の漁民が漁場を争って手に櫓や櫂を持って闘っている。お伴の命たちが双方の船の間を飛び回り、手で貴玉(たかたま)を振りながら「すゐすゐ」と声をかけ鎮める。これを「みすゐのり(御すゐ告り」といったという話が宗像本にあるが、大友本にはない。 
  

■宗像本二十二綴十三〜四章→大友本九巻八十四〜九頁
 ウガヤフキアエズ五代の時、カラシナ国の使者が高千穂の大宮に参り来て織物や船作りの技術を教えと欲しいと嘆願する。朝廷は願いを聞き入れる。カラシナ国の王は感謝して毎年貢物を奉ることになる。そして最初に貢物を乗せた船が着いたところをカラツ(唐津)というという話が両本にある。 
 宗像本では、使者は「オモチ(商業)」の術の指導も願う。これに対して織物と船作りについては担当の「ミコト(命)」たちを派遣するが、「オモチ」については口伝えで十分ということで、担当の命が使者に文字(ウエツフミ文字)を教えて指導内容を書き記した文章を持ち帰らせる。
 大友本には「オモチ」は見えないが、技術指導のため担当の「カミ(上)」たちとその「ウカラド(一族)」数十人を帰国の使者に同行させる。
 またカラシナのほかオルシや三韓など外寇の記事が繰り返し出てくるが、いずれも両本の記事内容は似ているものの、その文章表現は相当異なっており、共通の文献があってそれをそのまま書き写したものとは考えられない。

■宗像本三十四綴八章→「解読 上紀」大友本うえつふみ

 同じようなことが、古事記や日本書記から離れてくるにつれ増えてくる。ウガヤフキアエズ五十二代の時、トヨヒのアトベシマ(内藤平四郎の「上記附録」に「跡部島亦瓜生島」とある)の漁民に磁石の羅針盤を教える記事がある。
 宗像本では磁石となる鉱石をミケのイワガラとヒケのイワガラと呼び、その二つを串に刺すと北と南を指す。そして「そのミケのイワガラはククカネ(銅)をイラ(厭?)いヒケのイワガラはササガタ(砂鉄?)を食らう」と磁石の性質を記す。
 大友本では、マミイワをク〃イタ(銅板}の細板の先に取付けて針先にして回るようにすると針先は自然と北を指すといい、マミイワは「ク〃カネニアウテヨロコビルイワナリ」と説明して両本の文章は同じではない。